「幸せの行方」 その24 ピアノ
2020.10.26 (Mon)
たまには、順子の手料理が食べたいと、
珍しく、事務長の叔父が来ていた。
独り者で、日頃は行きつけの小料理屋での食事が常であったので、
順子も、気を使っての幾種類もの家庭料理を準備した。
テーブルの上から、食べ終えたお皿を引き出すと、
叔父と雅彦は、薫を連れてリビングのソファーに座った。
「ありがとうね、順子さん。久しぶりの家庭料理で、
寿命が延びたよ」
そう言うと、部屋の隅にあるアップライトのピアノ前に座り、
おもむろに蓋をあげ、消音ペダルを踏み、
薫の方を見ながら、緩やかにポピュラーを弾きはじめた。
目を丸くした薫は、瞬きもしないで叔父を見ている。
この家で、ピアノを弾くのは母親である順子だけだったので、
男性の叔父が、それも、素晴らしく上手に弾くことが、
やはり、珍しかったのだろう。
順子も、台所で洗い物をしながら、耳を傾けていた。
流石に、見事な演奏に思えた。
音楽の勉強を専門に続け、
永く本場のアメリカでジャズの音楽家として活動をしていた叔父は、
これからという時に、院長に呼び戻され、
経営部門での司令塔として、勤務してきた。
彼の柔軟な発想と、先見の明のお陰で、
病院とその関連施設の経営は順調に推移し、
更には、老人医療に関する施設の設置も成功させていたのだった。
リビングでは、叔父のピアノの伴奏で、三人が童謡を歌いだした。
男性の低い声と、小さな子どもの可愛らしい声での合唱は、
少し、可笑しくもあったが、
暖かなものを、順子は感じて、
洗い物を続けながら一人で笑顔を見せていたのだった。
「ありがとう、楽しかったよ」
玄関口まで送りにきた三人に、お礼を言った叔父は、
薫の頭をそっと撫ぜ、順子からの靴べらを手にすると、
揃えてあった、薄茶色の洒落た紐靴を履いた。
門のところまで送った雅彦が、
少し、酔いを感じる叔父を案じて声を掛けた。
「叔父さん、飲みすぎないようにね。
うちへは、何時来てもらってもかまわないんだから」
雅彦の言葉に、ちょっと苦笑すると、
叔父はゆっくりと振り返ると、背中越しに手を振り、
街角の闇の中に、その後ろ姿を消していったのだった。