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「幸せの行方」 その18 城崎温泉2

2018.11.13 (Tue)


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5時間近い列車の移動が疲れたのだろう、
あれから起きることなくすやすやと寝てしまっている薫を光子に預けて、
義母と街中の散策に行くことになり、
丁度街中まで行くホテルのバスに、一の湯前まで送ってもらうことにした。

バスから降りて大谿川の橋を渡り小路に入ると、
すぐに楽しみにしていた城崎文学館が見えてきたが、
支払いを済ませて館内を見て回ろうとした玄関ホールで、
義母の携帯電話の着信音が聞こえた。

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何か話をしている様子だったので、
順子はゆっくりと先に二階に上がって、文豪たちの見事な墨書を眺めた。
フロアには順子の他に人の気配はないように感じられたのだが、
暫くすると僅かにあの懐かしい良い匂いがしたような気がして思わず顔を上げた。
墨書が展示されている順子の目の前の硝子に映って、
自分の真後ろで低い展示棚を覗いている男性の後ろ姿が見て取れた。
それは見間違うことなくあの人の背中だったのである。

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けれども、振り向くことさえできない、
階下には義母がいるのだ。

案の定上がってきた母親が、佇む順子の傍らに寄ってきて、
ここを見終えたら、お土産の蟹を買いに駅前の通りに行こうと言い出したのだ。

大谿川沿いの店を覗きながら、
駅前の通りにある魚屋まで僅かの時間で着くことができた。
院長や雅彦たちも、来週には別の班で城崎を訪れ蟹を堪能するのは分かっていたが、
それでもお土産として季節である見事な松葉蟹を数箱宅配にすることにしたのだ。

義母の相手をしながらも、あの人のことがこころを満たしていた。
動揺を気付かれないようにと努めたがどうだかわからなかった。
昔から嘘をつくのは上手ではなかったからだ。

けれど、順子が蟹の送り先を書き終えるのを、待っていたようにして、
先にホテルに帰るから順子さんはもう少しゆっくりしたらと、
なぜだか少し慌てたようにした義母は、
丁度通りかかったタクシーに乗り込んでしまった。


このままどこかに連れて行ってもらいたかった。
すべてのことを捨てて、この人のためだけの日々を過ごしたかった。
瞼を閉じると睫毛が震えているのが自分でわかった。
僅かに背伸びして泣きながら自分から求めた口づけは、涙の味が感じられた。
嗚咽の声が漏れるのは仕方がないと自分を許した。
どうしようもなく会いたかった人にこうして抱きしめられているのだから。

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数日前順子への電話を終えた後、彼女らが泊まる城崎のホテルを探した。
毎年数回山陰を訪れている柏木にとって、それはそれほど難しいことではなかった。
逢えばどうなるわけではなかった。
逢えば二人の行方が落着するわけではなかったが、
そんな自分をどうしようもないままに、
馴染みの上客として、同じホテルの部屋をとることができたのだ。

多くを話すことはできなかった。
何も話せなかったといってもいいかもしれない。
町外れの高台にある東山公園の展望台、
見下ろせば駅とそのホームに停まっている列車が見え、
その左手には円山川が望めた。
この時間に訪れる人もなく、そこにいる二人だけの僅かな時間が流れていたが、
それでも、永くいるわけにいかなかった。
あれだけ強く引き寄せていた柏木の背中から
名残惜しそうに順子の両腕がそっと滑るように離れると、
もう、母親の顔に戻る時間だったのだ。

また、暫くはきっと逢えないと思えたが、
いつまでも引き止めるわけにもいかなかった。
振り返ることもできないまま坂道を下りて行く順子の震えるような小さな後姿を、
居た堪れない気持ちで眺めているしかなかったのだ。

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15:23  |  「幸せの行方」  |  Trackback(0)  |  Comment(4)
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